京都の代表的な伝統工芸品である「京焼・清水焼」は、1200年の歴史と 伝統を背景として、恵まれた文化と環境の中で生まれ、育まれてきました。
一般に「京焼」の名で呼ばれるやきものは、茶の湯の流行と普及を背景に、 江戸時代の初めごろから、東山山麓地域を中心に広がったやきものをさしています。

起源~茶の湯の隆盛

  京都のやきものの起源は、5世紀前半の雄略天皇の御器、 7世紀初期の洛北岩倉・上賀茂で焼かれた祭器や 屋根瓦、8世紀前半の清閑寺の土器などにみられ、このよう な古墳時代から奈良時代・平安時代にかけての 土器跡や 須恵器窯跡の存在は明らかですが、その後の「京焼」の 出現には長い年月を待たねばなりません。
瀬戸より施釉陶の技術が京都にもたらされた後、京都の諸窯 では灰釉陶器や三島手など、いわゆる中国・朝の 「うつしもの」中心に製作され、宮中や社寺 その他富裕層の人々のあいだで使用されていました。
室町後期から桃山時代にかけて流行し、我が国の文化に 大きな影響を及ぼす茶の湯の隆盛と茶道具の 「唐物」から 「和物」への移行の流れにあわせ、その後京都のやきもの も大きく変化してゆきます。


仁清と乾山

正保初年(1644)頃、丹波の陶工、野々村仁清
(俗名:清右衛門)が御室仁和寺門前に窯を開き、 寺名と俗名より「仁清」と名乗り、茶器を中心に制作を開始します。
作風は高麗・唐物・瀬戸・伊賀などの「うつしもの」も 仁清の手にかかるとその形状はより洗練されたものとなり、 もっとも特徴的な華麗で雅やかな色絵陶器は御室焼・仁和寺焼と大きくもてはやされ、初期京焼の諸窯 (粟田口焼・御菩薩池・音羽焼・清閑寺焼など)におおきな影響を与えました。

各窯でもこれまでの「うつしもの」から「色絵もの」への転換がおこなわれ、 なかでも、江戸初期から中期につくられたものは 現在「古清水」と総称されています。

仁清とともに、京焼の祖とされる尾形乾山は、京都の呉服商雁金屋の三男として生まれ、絵師尾形光琳を兄に持ち、 曾祖母は本阿弥光悦の姉にあたります。
光悦の楽焼の陶法書を授かり、さらに仁清のもとで陶法を学び、元禄十二年 (1699)洛西の鳴滝に開窯、作陶を開始します。
乾山のやきものは、師仁清の作風とは全く異なり、 兄光琳との合作の絵皿には鉄絵で奔放な筆致によって生き生きとした絵付が施され、 透鉢や向付・蓋物などには色絵を用いて 大胆に独特の図様を描き、その独創性は「京焼」のみならず、 後代の日本のやきものにおおきな影響を与えつづけています。

京焼と清水焼

 

仁清・乾山の出現とともに黄金期を迎えた「京焼」は、その後も 奥田頴川・青木木米・仁阿弥道八・永楽保全・和全・清水六兵衛など それぞれ独自の個性をもった名工たちを輩出します。

18世紀後半(1781-89)頃、奥田頴川により「京焼」にはじめて 磁器の技術が導入され、 粟田口・五条・清水の各窯でも磁器の制作が始まります

なかでも清水寺の領内にあった「清水焼」はその庇護のもと、 より洗練された磁器製作を続け、明治・大正期には国内だけに とどまらず、 海外までもその名を知られるほどとなり、 その製作地域は粟田、清水から日吉、泉涌寺地区まで 広がりをみせました。

現在でも手作手描の高度な技術と多品種少量生産を特色 とする「京焼・清水焼」は、日本の陶磁器界で確固たる 地位を築き、 先人たちの活躍に加え、その伝統はさらに 新たな意匠を目指す名工たちに受継がれています。